
紛争地や自然災害の被災地など、世界中に医療を届ける国境なき医師団(MSF)。手術室看護師の白川優子さんは、2010年の入団以降、パキスタン、イエメン、イラクなど計19回の派遣を経験してきました。
MSFの活動を小学生のころに知ってから、つねにその存在が胸の中にあったと話す白川さん。看護師になってから、責任感の大きさとスキル不足に悩みながらも、夢を諦めなかった理由と、人生の選択で大切にしていることを伺いました。

周囲の反対を振り切って看護師へ
──まず、なぜ看護師になろうと思ったのか教えてください。
白川さん:高校3年生の進路選択がきっかけです。90年代前半ということもあり、女性は早く就職して結婚という考えがまだ根強い時代でした。商業高校だったので、周囲も夏休み前には就職先が決まっていくなか、どの職場もピンとこなかったんです。
何者かにはなりたいけど、その“何か”がわからない。そんな日々を過ごしていたころ、友人が看護学校に行くと話しているのを聞き、「これだ!」とバチっときたんです。そこですぐ、家族と担任に進路希望を伝えましたが、猛反対を受けてしまいました。
──どのような反対を受けたのでしょう……?
当時の商業高校は就職率の高さが重要視されていたため、担任からは就職を強く勧められました。また、父親からは「看護師は夜勤がある。旦那の夕食は誰が作るんだ」なんて、今では考えられないことを言われてしまいました。
ですが、看護師になりたい気持ちは揺るがず、学校探しを淡々と進めていました。「看護師になる」と言い続けたことで、自然と周囲から学校の情報が集まるようになり、地元・埼玉県でできて間もない学校に進むことが決まりました。
──看護学生生活はどのように過ごしていましたか?
地域医療の人材不足を補うために医師会が設立した学校だったので、学生は学業と並行して近隣病院での勤務が必須でした。なので、朝1時間は病院勤務、9時に授業開始。13時に学校が終わったら、14時から勤務を再開して夜まで働くという日々でしたね。
昼食は自転車をこぎながらのおにぎり、土日も授業がなくても勤務はあり、遊ぶためには睡眠時間を削るしかないというハードさでした。そのなかで出会った同級生たちは、いまでも“戦友”のような存在です。

──学業と仕事の両立は大変でしたね。卒業後もそちらの病院へ?
勤務していた病院にそのまま就職する人が多かったのですが、私は地域にある19床程度のクリニックを選びました。というのも、ここの院長先生は外科の第一線で活躍していた方で、「田舎のクリニックですごい外科手術をやっている」「どんな患者でも断らない」と評判だったんです。
激務のなかで築いた看護師の土台
──最初の就職先では、どのような業務を担当しましたか?
「患者を24時間断るな」という理念を掲げていたので、なんでもやりました。看板は外科でしたが、実際は風邪でも腰痛でも受け入れていたので総合診療科のようなクリニックでしたね。
私以外ベテランばかりだったので、病棟の一般的な管理、術前・術後のケア、救急患者や急変時の対応、手術室業務……あらゆることを学びました。24時間体制の2交替制を看護師5〜6人で担っていたので、人手が足りず、緊急オペのときは、引退した70代の看護師さんに来てもらい病棟をお願いすることもありました。
激務と自分のスキル不足に落ち込み、泣きながら勤務先に向かうこともありましたが、先輩たちのエネルギーに負けないよう必死でした。
──3年ほどでそこを辞めているのは、やはりハードさから?
いえ、入職3年目のとき、国境なき医師団がノーベル平和賞を受賞したという報道を見て、心に火がついたんです。MSFは小学生のころから知っていましたし、看護学生になってからも心の片隅にある存在でした。受賞のニュースを見て「私、国境なき医師団に入る」と決め、すぐに説明会に申し込みました。
ところが、説明会に行ってみると英語力が足りないと痛感……。そこで、英会話スクールに通うことに決めました。
──行動が早いですね。仕事と学業は両立できたのでしょうか?
いえ、難しかったです。なので、英語力を伸ばすためにも退職し、日中は英会話スクールで学業に専念し、夜は介護施設でアルバイトをしていました。ただ、1年ほど続けてみて、日本にいながら“仕事で使える英語力”を身につけるのは難しいと感じ、留学したいと思うようになりました。
留学資金を貯める必要があったので、給与が良い産婦人科病院へ転職しました。働くなら、未経験の分野にも挑戦したいと思ったんです。
──産婦人科は未経験だったんですね。
そうなんです。学生のころから「一番ハードなのは外科」と思っていましたが、産婦人科に入ってみると、その考えが一気に覆されました。
「母子の命を決して落としてはならない」という責任の重さが想像以上で、プレッシャーに押しつぶされそうでした。
周りは産婦人科歴20年以上のベテランばかり。いつ起こるかわからないお産に備えて常に臨機応変に動かなければなりません。外科を経験してきてそれなりに自信があったのに、実際は先輩についていくのが精一杯の状態でした。入職から半年は多忙さとスキル不足に悩み、毎日辞表を持ち歩いていたほどです。
──そんな状況をどう乗り越えたのですか?
謙虚に学ぶ姿勢を持ち続けたからだと思います。「自分はバリバリの外科から来た」という自負もありましたが、産婦人科では素人です。一から学ぶつもりで先輩に質問しながら業務に臨みました。すると、先輩たちは誰一人嫌な顔せず快く教えてくれたんです。
「頼ってもいいんだ」と気づいたら、業務を覚えるスピードも早くなり、スキル不足やプレッシャーを感じなくなりました。ここでは留学するまでの3年間在籍しましたが、一時帰国の際にもアルバイトをさせてもらうなど、本当にお世話になった職場でした。

海外で成功してもなお苦しい
──産婦人科退職後はすぐに留学へ?
ええ。欧米圏より費用が抑えられ、日本から比較的近いオーストラリアに渡りました。数ヶ月間現地の語学学校に通ったのち、大学の看護学部に入学しました。
すでに7年の臨床経験があったので技術面では問題なく、先生が「今日は先生が2人いるよ」と言い、私に手本を頼むこともありました。ところが、語学力がなかなか伸びず……。私から学生に技術を教える代わりに、学生からは英語を学び合う関係性を築き、2年間の学業をなんとか修了しました。

──現地の看護師資格を取得してからは、どのようなところで働いたのでしょう?
学生のころからアルバイトをしていた内視鏡クリニックに、そのまま就職させてもらいました。胃カメラの洗浄や診療補助をしていたのですが、業務内容が単調で、使う英語も決まったフレーズが多く、なかなか語学力も上がりませんでした。次第に、もっと大きな病院で働きたいという気持ちが強くなっていきました。
そこで、大学時代の実習で訪れて以来憧れていたロイヤルメルボルン病院の求人を眺めていたところ、ちょうど外科看護師で内視鏡分野に長けている人を募集していたんです。これはチャンスだと思いすぐに応募しました。前職での経験が要件に合っていたこともあり、幸い採用していただけました。
──その病院ではどんな業務を担当していたんですか?
日帰りオペの担当になり、内視鏡手術をはじめ、眼科や皮膚科などの日帰り手術看護を担当しました。学生のころから「こんな大きな病院で働くなんて夢のまた夢」と思っていたので、就職できて本当に幸せでした。でも、またしても壁にぶつかってしまったんです。
──それはどのような?
言葉の壁です。同僚や患者の話す英語についていけず、毎日コンプレックスを感じていました。私の言語スキル不足のせいで、周囲が困っているのではないかと思い悩み、入職から3ヶ月後には看護師長に「辞めます」と伝えに行ったんです。
ところが、返ってきたのは「語学力なんかで悩まないで!」の一言。結局辞表は取り下げ、そのまま働き続けました。
──その後、言葉の壁は越えられたのでしょうか?
看護師長が同僚にも私が語学で悩んでいることを伝えてくれたようで、周りがたくさんサポートしてくれるようになったんです。飲み会や食事会などのイベントにも誘ってもらえるようになり、とても居心地が良くなりました。
すると自然に語学力も上がり、プロジェクトリーダーを任されるまでに成長できました。永住権も取得できたので、このままオーストラリアに住むのも良いかもと思ったくらいです。
──何もかも順風満帆に進んでいたんですね。
客観的に見ればそうだと思います。ですが、3年目に入ったころから「何かが違う」と感じるようになり、次第に働くこと自体が苦しくなっていました。
そこで、休みを使ってバックパックを背負い旅に出ました。いろいろな土地を回るうちに、ふと気づいたんです。「私、国境なき医師団に入るためにオーストラリアまで来たんだ。夢に向き合わなかったから苦しかったんだ」と。
あまりに恵まれて、楽しい世界だったので、夢を見ないふりをしていたんだと思います。これに気づいて間もなく、MSFに面接依頼の連絡をして、勤務先にも退職を伝えました。
夢がかなった瞬間の“覚悟”
──仕事を辞めたあとは、すぐにMSFの面接へ?
ええ。面接は日本だったので帰国して臨みました。語学も身につけ、看護師としての経験も国内外で十分積んだので自信がありました。面接は無事通過し、手術室看護師として登録され派遣要請を待つ日々でした。
最初に派遣されたのは、スリランカにある200床以上の病院でした。ビザの申請に時間がかかり、登録してから実際に派遣されるまでに3ヶ月くらい待ちました。
MSFのホームページで見慣れた憧れのTシャツに腕を通したとき、言葉で言い表せない気持ちになりました。ただ「とにかく頑張ろう」と。

──現地ではどのような支援をおこなったのでしょう?
手術室看護を任される予定だったのですが、到着するやいなや「感染管理をお願いしたい」と告げられました。院内の感染を防ぐため、消毒・手洗いなどの衛生管理や洗濯、ゴミの分別を主導しました。MSFからは私1人でしたが、病棟に元からいる現地スタッフに指導したり、ロジスティックスタッフに焼却炉を作ってもらったりと、たくさんの人との協働でした。
──派遣スタッフは、何人くらいで構成されているんですか?
大体5人から15人くらいですが、プロジェクトによっては30人規模のこともあります。事前に顔合わせもなく、国籍も職種も違うメンバーが揃います。滞在期間も、数日から数ヶ月に及ぶなどさまざまです。大体みんなでシェアハウスで過ごすことが多いので、自然とチームの連帯感が生まれてきます。
──紛争地で活動するケースもありますよね。どのような場所で医療を提供するのでしょう?
現地の既存の病院があればその一角を借りることが多いです。しかし、紛争で破壊されていたり、もともとなかったりする地域では、テントを設営して支援することもあります。
挑戦は“心の赴くままに”
──白川さんはMSFに登録後、何回くらい派遣を経験したのでしょうか?
15年の間に、南スーダンやパレスチナなどの紛争地を中心に11ヶ国に計19回派遣されました。派遣要請を受けても、安全面を考慮して断ることもできますが、基本的にどこでも引き受けてきました。
──これまで経験した国内外の医療現場との決定的な違いは何でしたか?
日本やオーストラリアでは救える命が救えないことです。日本でなら、かかりつけの病院で対応できなくても別の病院という選択肢があります。治したあともリハビリや心理的ケアにつなげることもできます。紛争地では、こうした包括的アプローチは難しいのです。
物資がない、人がいない、安全な場所がない、さまざまな理由で紛争地や被災地では救えない命を目の当たりにしてきました。
爆撃にあった、名前も言えない小さな子の命が救えても、この子の親戚が生きているのか、病院を出たらどうやって生きていくのか、再び危険な目にあわないか心配は尽きません。現地のNGOや適切な機関を探そうにも、そもそも存在しない地域も多いのが現実です。
──それでも要請が来たら向かう、その原動力は何なのでしょう?
ほかの援助団体が撤退しても、MSFはその流れに反してでも現地に入ります。2021年のアフガニスタンのタリバン復権の際もそうでした。あらゆる機関が撤退していくなか、現地に行くと「こんななかよく来てくれたね。ありがとう」と言ってくれたんです。私が向かう理由はここに尽きます。

治療だけが医療ではありません。私たちの姿を見るだけで希望になるかもしれない。これまでの派遣で、医療資源も人も限られたなか、側にいる、気にかける、話を聞く、手を重ねる、これだけでも十分看護なんだと実感しました。

──学生時代の病院勤務からMSFに至るまで、あらゆる医療現場で経験を積んできました。キャリアを選ぶうえで大切にしてきたことはありますか?
高校の進路、産婦人科への挑戦、海外進出とたくさんの場で選択の機会がありました。そのとき大切にしていたのは、心の赴くまま、やりたいことを優先するということです。
新しい場に行くときは、いつもドキドキします。ですが、挑戦したいと少しでも思ったら、それは「そっちに進め」という心の声だと捉えています。
一歩進んだ先には、自分が知らないものすごい広い世界が待っていました。自分の心に従うと不思議と後悔がなく、大変なことでも乗り越えられます。これからもワクワクする場で、看護師としての力を発揮していきたいです。
取材協力:国境なき医師団