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ヤングケアラーという言葉を聞いたことがありますか? ヤングケアラーとは、本来大人が担うと想定される家事や介護などを、日常的におこなう子どものことです。幼いきょうだいの世話、病気の家族のケア、親の代わりに家事をするなど、その状況はさまざまです。
ヤングケアラーとなった子どもにはあらゆる問題が生じます。例えば、勉強時間を奪われることで学力が低下したり、十分な栄養や睡眠時間を取れず、心身の発育に影響をおよぼすことがあります。また、人との交流が制限されることで孤独を感じる子どももいます。
日本総合研究所が2022年におこなった調査では、小学6年生の15人に1人、大学3年生の16人に1人が家族の世話をしていると答えました。つまり、1クラスに1〜2人のヤングケアラーがいる計算です。

お笑いコンビ「平成ノブシコブシ」の徳井健太さんもヤングケアラーとして10代を過ごしたひとりです。統合失調症の母親に代わって家事や育児を日常的におこなってきました。
「母親がぶっ壊れてからは、家のことはすべてやっていました。気がついたらそれが当たり前になっていたので、大変だと思ったことはありません」
こう語る徳井さんの過去からヤングケアラーの実態をみていきます。
話を聞いた人

徳井 健太さん
1980年生まれ。2000年に吉村崇とお笑いコンビ「平成ノブシコブシ」を結成。『ピカルの定理』などバラエティ番組を中心に活躍。お笑いやアイドルについて、独自の視点で語る考察芸が人気を集め、個人のYouTubeチャンネル「徳井の考察」を開設。最近では、ヤングケアラーをテーマにした講演会を全国各地でおこなう。
ぶっ壊れていく母親
徳井さんは、両親と6歳離れた妹と暮らす4人家族。中学2年までは千葉県君津市の団地で過ごしていました。
お母さんの人柄について徳井さんは「よく怒っていたし、怖かった」と話します。もともと料理や掃除に無頓着だったため、代わりに家事をする機会が多かったそうです。一方、お父さんは家庭を顧みず仕事に打ち込む人でした。家族と接する時間が少なく「親父の記憶はあまりない」と振り返ります。
徳井さんが中学1年のとき、お父さんだけが神戸で暮らすことになりました。
「親父の会社では、高卒じゃ昇進できなかったそうなんです。そこで、会社がお金を負担する形で大学に通うことになりました。母親がおかしくなっていったのはそれからです」

ある日家に帰ると、お母さんが窓の下に隠れて怯えています。
「どうしたのって声をかけると、『隣の団地から誰かに監視されている』と言うんです。コントかなと思って、窓を覗きながら『そうだね、見てるね』と返しました。それから、部屋から一歩も出なくなったんです」
そのとき、どう声をかければよかったのかは、いまだにわかりません。
「30年前は精神病や精神疾患という言葉になじみがなかったし、症状を調べるにもネットもないし、俺まだ中1だし。まさに狐に取り憑かれたような状態でしたね」
「でも、部屋から出なくなったな〜、くらいにしか思っていませんでした。カーテンも開けず部屋に閉じこもったままで、それが2年間くらい続いたんです。その間、一度も姿を見ていません」
病気のきっかけは一体何だったのか──。
両親はともに北海道別海町の出身。お母さんは高校を中退し、お父さんの卒業を待って結婚しました。その後、千葉県へ移住し、21歳のときに徳井さんを出産します。
「父親のことが好きだったからじゃないですか。父親以外と恋愛をしたことがないだろうし、父親がすべてだったと思うんです。長い間父親と離れるのが初めてで、浮気の心配もしただろうし。それに、友達も親戚もいない、縁もゆかりもない千葉での暮らしが不安だったとも思います」
悪化する病状。そして千葉から北海道へ
お母さんは自室に引きこもり、姿を見せませんでした。生活費はお父さんが送金し、そのお金でお母さんは酒を飲むようになりました。
「ドアをノックすると、隙間から一万円札がスーッと出てくるんです。それから買い物リストの紙が出てくるので、書かれているものを買って、料理をして片付けまでしていました」
「ある日、4リットルの焼酎を買ってきてくれと言われたのですが、次の日には空いたボトルが転がっていて」

病状は悪化の一途をたどります。幻覚・幻聴からくる興奮により、手をつけられなくなることも珍しくありません。
「暴れ回る母親を無理やり押さえつける日々があったぐらいで、深刻にも、感情的にも思っていません。俺は親から愛を受けて育てられたと思っていないから、家族がどうなろうと知ったこっちゃなかった」
病状を改善するため、一家は親戚の住む北海道別海町へ移住することになります。生まれ故郷での生活に安心したのか、お母さんは時折部屋から出てくるようになりました。しかし、症状が完全によくなったわけではありませんでした。
「家の中の全部のコンセントにケチャップを塗ったり、コップに入れたオレンジジュースを神様のように抱えていたりと珍事が起きるわけですよ。相変わらず暴れていましたし。その様子を妹と眺めて、『これは入院だな〜』と話していました」
統合失調症に加えて、アルコール依存症でもあったお母さん。投薬を続けるも、3ヶ月に一度のペースで自宅で暴れていました。
「うちの母親の暴れ方はぶっちぎりで、あれがよくなるとは考えられなかった。母親のまともな姿を中1のときから見ていなかったし、医者にも治ることはないと言われていました」
誰にも助けは求めない、困っていないから
学校、炊事・洗濯、妹の世話、そして母親のケア。これらをひとりの中学生が担うのは容易なことではありません。しかし、誰かに頼るという考えはなかったと徳井さんは言います。
「生活に困っていないし、助けてほしいとも思ったことがないですね。母親のことは当たり前だったし、妹は俺が世話しなきゃ死んじゃうからやっていたようなもの。それに、人と関わりたくないと思っていましたから」
中学2年生のヤングケアラーを対象としたアンケートによると、「学校や大人に助けてほしいこと、必要な支援」の質問に対し、「特にない」と答えたのは全体のおよそ半数にあたる45.8%でした。さらに、「世話について相談をした経験」について尋ねると、「相談したことがある」と答えたのは21.6%、「相談したことがない」は67.7%で、7割近くが相談をした経験がないと答えました。
日本総合研究所|ヤングケアラーの実態に関する調査研究より
暗闇の中で見つけた生きがい
千葉に住んでいたときはバレーボール部に所属していた徳井さん。北海道に引っ越してからは部活動に参加せず、新聞配達のアルバイトを始めました。
「朝4時と夕方、2時間ずつ配達していたんで、毎月6万円くらい稼いでいました。そのお金でCDを買ったり、服を買ったりと自分のために使っていましたね」
青春時代の救いはお笑いと音楽でした。とりわけ夢中になったのがダウンタウンとeastern youthです。この2組がいなかったら、今ごろどうなっていたかわからないと言います。
「僕、ダウンタウン信者だったんです。松本(人志)さんの『遺書』(朝日新聞出版)に感化されて、卒業文集に『俺は30歳になったら死ぬ』みたいなことを長文で書きました。その卒業文集と卒業アルバムは川のほとりで燃やしました」

「eastern youthはヤンキーの同級生に教えてもらいました。ものすごい衝撃を受けて、バンドをやったり、自分で作曲をしたりもしました。彼にeastern youthやbloodthirsty butchersを聴かされていなかったらもっとつまらない高校生活だったでしょうね」
高校3年生、進路の候補を3つに絞りました。
「料理ができたので調理師専門学校に進学しようか、バンドをやっていたから音楽をやろうか。そんなときクラスの女子から『徳井くんは芸人になったらいいよ』と言われて、じゃあ芸人になるかって。本当に何でもよかったんです、東京に行ければ」
そうして選んだのは芸人の道。新聞配達で稼いだお金でNSC(吉本総合芸能学院)の入学金を払い、北海道を離れます。
母親の死
上京して出会った吉村崇さんと平成ノブシコブシを結成。活動を開始して数年後、レギュラー番組も決まりました。その間、お母さんと連絡はとっていません。
ある日の仕事中、妹から電話が入りました。
「『ピカルの定理』というコント番組の撮影をしている最中、妹から『母親が自殺した』と電話があったんです。その日は朝まで収録して、当時練馬にあった実家に朝6時くらいに行きました」
お母さんの死を、徳井さんはどう感じたのか。
「悲しみよりも、肩の荷がおりたというのが正直な気持ちです。母親が生きている間に、もし父親に突然死なれたら、誰が面倒をみるんだとうっすら思っていましたから。妹には不可能だから、俺がみるのか……でもそれはできないなと。働けなくなるし、お金もかかる。だから死んだときは…………そうか、と……」

徳井を救った恩人とは
徳井さんの言葉の端々から、心に抱える闇が見えてきます。
「母親と暮らしていた当時、悲しみも苦しみもあまり感じなくて、正直“おもしろい”という感情もなかったです。母親や妹の面倒を見ることでその感情が消えていったのか、もともとその感情がなかったのかはわかりません。ただ、大人になっても感情的になることも、嫉妬心もないんです。35歳まではどうでもいい、死んでもいいと思っていました」
破天荒といわれた吉村さんに対し、サイコの異名を持つ徳井さん。芸人仲間からはクレイジーだとおもしろがられ、そこに自分の居場所を見出しました。しかし、そんな徳井さんを本気で叱った人がいます。吉本興業の先輩である小籔千豊さんです。
「小籔さんと出会って、ようやく人になれた気がしました。一緒に『バイキング』という番組のレギュラーになったんですよ。そのとき何度も食事に連れていってくれて、いろいろなことを丁寧に教えてくれたんです。家族のこと、国のこと、お金のこと。そのおかげで挨拶とか、人に感謝をすること、品格というものを知りました」

「例えば税金について教わりました。俺らが普段歩いている道路は、自分たちより上の世代が税金を払い続けたおかげで作られたんだと。通っていた学校だってそうですよね、先輩方の払った税金で建てられたもの。だから俺たちも税金を払わなければならないんだと」
小籔さんに人としての生き方を教わり、自分の中に変化が芽生えました。
「その時期に『ゴッドタン』の腐り芸人の出演が決まったんです。関係者の中に僕を推薦してくれた人がいたんですよね。じゃあその人のために頑張ろう、収録では正直な気持ちを話そうと思いました。これがうまくいったんです」
徳井さんの考察芸はここから始まり、人を褒めたり諭したりする仕事が増えていきました。
「もしも小籔さんに出会っていなかったら今の僕はいないし、仕事もなかったと思います」
ヤングケアラーをどう救うか
ヤングケアラーに関する講演活動をはじめ、自身の体験を語る機会が増えました。ほかの当事者の過去を知り、自分とは決定的に違うポイントがあると気づきます。
「俺は親から愛を受けて生きてきませんでしたが、ほかのヤングケアラーのみなさんは愛があると思っています。家族に死んでほしくないから自分を犠牲にする人が多い印象です。愛がある人たちはつらいと思う」
「目の前の困難を乗り越えることだけを考えていたから、母親の病気が治ったらいいと思ってもいなかった。俺の生き方のほうが絶望もなくてラクだったと思います」
では、ヤングケアラーを支えたい人は、当事者にどのように接すればいいのでしょう。「ヤングケアラーを救うのは不可能に近い」と前置きしながらも、自身の体験を踏まえてこう語ってくれました。
「みんな僕と同じで、自分の境遇を大したことないと思っているし、困っているとも感じていません。だから、パンクするまでわからないんですよ。僕が小籔さんにしてもらったことは、一緒にご飯を食べることです。時間はかかるけど、何度も食事をともにすることが手っ取り早いと思うんです」
「そこに会話はなくてもいいんです。箸の持ち方や食べ方を眺めるだけでもいい。10回、15回と回数を重ねると、少しずつ会話が生まれていって、言葉の端々にサインが出てくると思います。お母さんのことを『あいつ』と呼ぶとか。ゆっくりゆっくり関係性を深めることが大切だと思います」
さらに、徳井さんならではの視点からこうアドバイスをしてくれました。
「僕らが子どものころって、ちょっとヤンキーのお兄ちゃんだったりイケイケなお姉ちゃんだったり、反社会性のある人に魅力を感じたじゃないですか。ヤングケアラーの力になりたいという人のなかには、金髪の人やタトゥーを入れている人がいるかもしれない。バンドマンやお笑い芸人でもいいですよ。そういう人がきっかけを作って、しかるべき人や窓口につなぐやり方のほうが早いのかもしれません」
ヤングケアラーとして生きる子どもたちへ
「趣味を大事にしてください。俺の生活には炊事、家事、学業、育児、新聞配達があって、そこに音楽とお笑いと本がなかったら真っ暗な人生だったと思います。僕はeastern youthを聴いて高揚したし、ダウンタウンさんが活躍する姿を見るのが生きがいだったから」

「趣味の時間なんて取れないという人もいると思います。『漫画を描く時間があるなら家のことやってよ』と言われたりね。それでも、好きなものがあることは精神衛生上とても大事なことだから、大人に否定されても好きなものを大事にする。趣味があればやり続けるべきだと思いますね」
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