看護師には医師のように「独立開業権」がありません。そのため、事業を立ち上げる場合は、訪問看護ステーションなどを設立し、医師の指示のもとでサービスを提供するのが一般的です。
そんななか看護師の蔭西訓子さんは、25年以上の現場経験と学びを活かして“起業”の道を切り開きました。病院、訪問看護、クリニックとさまざまな現場で経験を積んできた蔭西さんが着目したのは「足のケア」。
なぜベテラン看護師がフットケアに魅せられ、事業化にまで至ったのか。蔭西さんのこれまでの歩みと、看護師という仕事に秘められた可能性を伺いました。

看護師としての原点と歩み

──そもそも、なぜ看護師を目指したのか教えてください。
蔭西さん:短大で栄養学を学んでいたんですが、ちょうど就職氷河期で、ほとんど求人がない時代でした。そんなときに阪神・淡路大震災が起きて、ボランティアに参加したんです。そこで「人を助けられる仕事っていいな」と思い、短大卒業後に看護専門学校へ進学することを決めました。
──専門学校を卒業してからは、どのような職場で働いてきたんでしょうか?
新卒で大学病院に入職して、泌尿器科と内科の混合病棟を6年間経験しました。当時は本当にハードで、夜勤も多く、結婚したら辞めるのが暗黙の了解だったので、私もその流れで退職しました。
──そこからは、しばらく家庭に専念されていたんですか?
いえ、病院を辞めてすぐ訪問看護へ転職しました。ちょうど介護保険制度が始まった2000年ごろで、オープン間もない事業所でした。夜勤に疲れ切っていたので、夜勤がないことも決め手となりました。
この事業所では2回の産休・育休も取れて、とても働きやすかったです。何よりいまでも「訪問看護が一番合っていた」と言えるくらい業務内容が好きでした。ただ、看取りだけはどうも苦手で……。というのも、患者さんの痛みの評価をして、どのタイミングで薬剤を調整すれば良いのかうまく判断できなかったんです。
今後超高齢社会を迎える前に「しっかりと緩和ケアを学びたい」と思い、10年目で、地元でも評判の良かった病院へ転職しました。
──病院では緩和ケアを学べましたか?
はい。面接で「緩和ケアがやりたい、できなければ働きません」とまで伝えていたので(笑)。おかげで緩和ケア病棟に配属され、しっかり学ぶことができました。
また、新卒と同じ「病院」ではありますが、ここは保育所も完備されていて、夜勤も月3回程度と働きやすかったです。6年間の在職中には「ドイツ式フットケア技術者」の資格も取得しました。
フットケアとの出会いで広がるキャリア
──なぜ「ドイツ式フットケア技術者」を取ろうとしたのでしょう?
訪問看護や緩和ケアの病棟で、患者さんの足の爪切りやマッサージをすると、とても喜んでもらえたんです。なかには、毎回楽しみにしてくださる方もいて、「こんなに感謝されるなら、もっと上手に足のケアをしたい」と思ったのがきっかけです。
そこで、月2回の通学を1年間続け、巻き爪や爪甲鉤彎症(そうこうこうわんしょう)などの疾患ケア、ドイツ式フットケアなどを学びました。
──当時勤めていた病院の緩和ケアでも、資格は活かせましたか?
学んだことを患者さんに還元できたのは良かったです。ところが在学中に、スクールで身につけた知識と技術だけでは医療機関での施術に根拠が足りないと知ったんです。フットケアを学ぶうちに、「もっと専門的に足に関わりたい」という気持ちも強くなっていたので、資格を活かせそうな職場を探してみましたが、通える範囲にフットケア外来がありませんでした。
そこで、地域にあるクリニックの面接を1ヶ所受けてみました。そのクリニックの院長が、「いまはないけど、自分でフットケア外来を作ればいい」と言ってくださったので、転職を決めました。退職から入職までの間に、医療系国家資格保有者向けの「フットケア指導士」認定資格も取得し、知識と技術を磨いていました。
──なんと、入職前からフットケア外来立ち上げの許可が出たんですね。
そうなんです。まず1年間は、通常の外来やクリニックの運営にしっかり対応できるよう、外来看護師としての業務に専念しました。その後、外来の一角をフットケア専用スペースとして使わせてもらい、受診した患者さんの足を見せてもらうところから始めたんです。
──念願だったフットケア外来を立ち上げたときは、どんな気持ちでしたか?
「まずは潰れないように」を目標にしていたので、うれしさと同時に緊張感や大変さもありました。診療のついでにフットケアも案内してくれるなど、スタッフが協力的だったおかげで、次第にフットケアを目的に来てくださる患者さんも増えていきました。
現在もこのクリニックで週1回勤務していますが、外来が軌道に乗るまでには1年くらいかかりましたね。

進学で開けた起業への道
──フットケア外来が軌道に乗ったのに、大学院への進学を決意されたのはなぜでしょう?
フットケアが、フレイル(加齢による心身が虚弱状態に陥ること)予防につながっているのか知りたくなったんです。そこで、フットケアスクールの先生と知人の看護師に話したところ、「大学院で研究してみたら?」と答えたんです。信頼できる人たちがこう言うならと思い、大学院進学を決意しました。
──働きながらの受験勉強はさぞ大変だったのでは?
塾に通うことも考えましたが、費用が高くて断念しました。なので、毎朝出勤前にカフェに寄って勉強するのを習慣にして、半年間の勉強期間をなんとか乗り切りました。
──入学後もクリニック勤務は継続していたんですか?
社会人が多く、多くの学生が入学後も仕事を続けていたので、私も日中は変わらず働いていました。授業は平日18時〜21時までが週2日、土曜朝から夕方までの計3日です。
ところが実際に講義が始まってみると、課題が多く、資料作成や発表が想像以上にハードでした。常勤だった人が非常勤になったり、パートになったり、退職したりという変化を多く目の当たりにしました。私は途中で病気になり入院する必要があったので、半年間の休学も経験しました。
──それは大変でしたね……。休学で出勤回数や勤務時間は調整したのでしょうか?
はい、入院期間中は休み、復学時はパートとしてシフトを減らしてもらいました。自費で通っていたこともあり、「いまは仕事より学業」と割り切って、専攻以外の経営などの分野も受講していました。この専攻外で受けた講義がきっかけで、いまの事業ができたんです。
──講義をきっかけに起業というのは?
民間企業も参加する講義で、学生が発表したアイデアを事業化する取り組みがありました。そこで、臨床でも座学でも10年以上の経験を積んできたフットケアの事業化案をプレゼンしてみようと思い、挑戦したんです。すると、東京の大手コンサルティング会社が興味を示してくれました。プレゼンからわずか2ヶ月後には出資が決まり、フットケアサロンとして事業化する準備が始まりました。
──もともと起業を考えていたんですか?
いえ全く考えていませんでした。ただ、これまで培った技術や経験が、事業として通用するのか試してみたいという気持ちはありました。また、一人では不安でしたが、出資会社がサポートしてくれたので、「一緒にどんなことができるんだろう」とワクワクしたのも大きかったです。
出資が決まった5月から半年ほどは、ブランディングやコンセプトづくり、自分の強みの整理など「こんなにやるんだ」と驚くほどたくさんの準備を重ねました。テナントの物件探しや施術メニューの考案などはほぼ自分一人で進め、学業や仕事、家庭と両立しながら、なんとか2024年5月に素足再生サロン「VISOK(ビソク)」を開業することができました。
25年の“根拠ある施術”が強み
──25年以上経験した医療現場と比べると、サロンでの接客や経営などは全くの別物だったのでは?
いまだに「開業して良かったのか」と悩むほど、事業の運営に戸惑う日々です(笑)。医療では、患者さんの困っている箇所を治すのが目的ですが、サロンでは、美しい足にすることを目的にかかとや足裏の肌、爪のケアをします。なので、お客さまの話をじっくり聞いて、きれいにする、満足してもらうことがゴールです。
看護師しか経験してこなかった私にとって、最初はこの違いに戸惑い、どうすれば満足してもらえるのか不安で仕方ありませんでした。なので、経営者の集まりに参加して、同じ立場の方によく相談しています。
──オープンから1年半が経ちますが、運営上の悩みはありますか?
フットケアは夏に需要が高く、冬は客足が遠のいてしまうことです。この課題については、いまビジネススクールで対策を学んでいます。
──では、反対に他店と比べての強みは何でしょう?
やはり看護師として25年以上の臨床経験がある、専門性が高い点ですね。足をケアするお店はたくさんありますが、スクールや大学院でも学んできたので、エビデンスに基づいた施術ができる点はほかにない強みだと思っています。
たゆまぬ挑戦は「楽しみ」から
──これまでのキャリアでブランクを作らず、さまざまなことに挑戦してきた原動力は何ですか?
看護師になってからを振り返ると、ずっと何かを頑張ってきたなと思います。おそらく立ち止まるのが怖かったというのもありますが、一番の理由は「楽しいから」です。
職場や仕事内容が変わるたびに、新しい人との出会いや興味が生まれ、新しいことへの挑戦が見えてきます。起業してからは、臨床の現場では出会えなかった経営者仲間もでき、自分では思いつかないようなアイデアや視点が得られました。
──今後チャレンジしてみたいことがあれば教えてください。
まずは、いまのサロンを3年続けて、どんな景色が見えるのか確かめたいですね。大学院への進学や起業など、数年前には想像もしていなかったことがたくさん起きているので、今後どんな人に出会い、会社がどこまで成長できるのか楽しみです。
また、もっとフットケアを広めていきたいです。まだ足のケアを取り入れている病院やクリニックは少ないので、どこでも当たり前にケアが受けられるような環境が理想です。いまは、訪問看護経営者とともに看護師向けのフットケア勉強会の立ち上げを目指し、日々模索しています。
──最後に、看護師という仕事についてどう思われますか?
本当に大変な仕事だと思います。看護は助け合ってこそ成立する仕事です。私は大学院に入るまで、何でも自分でやろうとするタイプでした。しかし、それでは立ち行かなくなり初めて人を頼ることを知りました。悩みも業務も一人で抱え込まずいろんな人に助けを求めると良いと思います。
看護師に独立開業権はありませんが、医師の指示を仰ぐだけでなく、起業だってできる。たくさんの可能性を秘めている職種ですので、自分が「楽しい」と感じることを追求してほしいですね。