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東京都世田谷区の整形外科、山手クリニックで働く理学療法士の堂園森恵さん。スポーツ選手から一般の方まで幅広い患者を支える堂園さんには、かつて宝塚歌劇団月組で13年間、舞台に立ち続けた経歴があります。どのようなきっかけで宝塚歌劇団を志したのか。劇団を離れて理学療法士の道を選んだ理由と、今の仕事に込める思いを伺いました。
堂園森恵さん

東京都出身。1997年に宝塚音楽学校へ入学(85期生)、1999年に宝塚歌劇団へ入団し、月組に配属。青樹泉(あおきいずみ)としてデビュー。新人公演主演(2005年)、バウホール主演(2008年)を務めるなど男役として活躍。2009年の公演中に膝を負傷し、手術とリハビリを経験。2012年に退団し、2013年に社会医学技術学院(理学療法学科・夜間部)へ入学。2017年に理学療法士国家試験へ合格。現在は医療法人社団山手クリニックの理学療法士としてスポーツ選手やパフォーマー、一般の患者のリハビリに携わっている。
「こんな世界があるんだ」憧れた宝塚の門を叩くまで
──まずは宝塚歌劇団に入団するまでの経緯を教えていただけますか?
堂園さん:宝塚歌劇団を知ったのは中学生のときでした。同じクラスに宝塚ファンの子がいて、私の誕生日に舞台の原作本をくれたんです。「一緒に観劇に行こう」と誘ってくれたものの、「女性ばかりの劇団って……」と半信半疑でした。でも舞台を観てみたら、少女漫画の世界をそのまま体現したようなきらびやかさに、「こんな世界があるんだ」と感動してしまって。
その友達から「背が高いから宝塚を受けてみたら?」と言われたんです。それまで何の習い事もしてこなかったので、さすがに無理だろうと思いました。でも、この言葉がずっと引っかかっていたんです。
──そこから入団を目指したのは、何かきっかけがあったんですか?
その後は高校に進学したのですが、その先、大学に行って会社に勤める自分がまったく想像できなかったんです。「自分は何をやりたいんだろう?」と考えたとき、中学のときに友達から言われた「宝塚を受験してみたら?」という言葉が思い浮かびました。
「受けてみようかな」と思い、パンフレットに載っている宝塚受験スクール(宝塚音楽学校の受験合格を目指すための専門的なスクール)に片っ端から連絡し、見学にも行って、「ここにしよう」と決めてから両親に話しました。
芸事とはまったく縁のない家庭だったので、「何を言い出すんだ」と、とくに父は大反対でした。それが高1の秋のことで、宝塚音楽学校の受験まで半年しかなかったのですが、「せめて半年だけはスクールで勉強させてほしい」と頼み込んで、通わせてもらうことになったんです。
歌もバレエも何もやってこなかったので、最初の受験は当然落ちてしまいました。でも、スクールの先生が「実力はこれからでも伸ばせるし、向いているからもう少し頑張ってみたら?」と言ってくださって。
──スクールの先生に背中を押されたんですね。
そうなんです。ただ、父はずっと反対していたので、学校の担任の先生を交えて三者面談をすることになって。担任の先生がすごく理解のある方で、「夢を持てる子が少ないので、本気ならば1年間応援してあげましょう。もし落ちたら、次の1年は大学に行く準備をさせますから」と父を説得してくださったんです。
その後、高2の1年間は受験に集中できる環境になり、一生懸命お稽古して、無事に合格できました。父も「本気なら」と認めてくれて、高校を中退して宝塚音楽学校に進むことになったんです。
膝のケガで公演を離脱……初めて気づいたケアの重要さ

──宝塚音楽学校を経て、1999年に宝塚歌劇団に入団し、月組へ配属されました。長く舞台に立たれていましたが、2009年の公演中に大きなケガをされたんですよね。
そうです。公演中に膝の軟骨が欠け、手術をしました。5日間の入院後、翌日にはもう舞台に出ていましたね。休むこともできましたが、代役への負担もありましたし、何より自分が出たかったんです。さすがに踊るのは無理だったので、ショーは休んでお芝居だけ出演しました。
手術後のリハビリで初めて理学療法士さんに出会いました。身体の仕組みや動かし方を丁寧に教えてくださって、「ケガをする前にこうした知識を知っていたら、パフォーマンスが違ったかもしれない」と感じましたね。
──そこから、身体のケアに対する意識が変わっていったんですね。
そうですね。その次の公演で大きな役をいただいたんですが、和物作品で正座のシーンもあり、膝に負担がかかることがわかっていました。
どうしてもチャレンジしたかったので、役づくりのためトレーナーさんをつけてもらって、筋トレを続けました。トレーニングを重ねると、ケガをする前よりも身体をうまく使えるようになり、膝への不安もなくなっていきました。そのとき、「今までは若さに任せてケア不足だったし、自分の体のことを何も考えていなかったな」と実感したんです。
こういった経験から、「理学療法士の仕事っておもしろい」「身体のことをもっと知りたい」と思うようになりました。自分でも身体の使い方を勉強して、公演前のウォーミングアップにも筋トレを取り入れるようになったんです。
ケガをした当時は思うように体を使えないもどかしさもありましたが、体づくりをするようになってからは心身がすごく安定してきて、「体の使い方が変わると、気持ちまで変わるんだな」と実感しました。
──復帰から3年後の2012年に退団されました。決め手は何だったのでしょうか?
復帰後の和物公演で、男役として挑戦したいと思っていた理想の役をいただけました。その舞台を終えたとき、「宝塚でやりたいことはやり切れたな」と、自分の中で区切りのようなものを感じたんです。
もう一つは、父との約束です。「高校を辞めてまで宝塚に入ったんだから、同じくらい“なりたいもの”を見つけるまでは辞めてはいけない」と言われていて。その言葉がずっと頭にありました。
──「同じくらいなりたいもの」が、理学療法士だったんですね?
そうなんです。宝塚人生を振り返ると、一番つらかったのはやっぱりケガをしたときでした。次のステップを考えるなかで、「このマイナスの経験をプラスに変えたい」という思いが膨らんできて、「理学療法士として身体のことをもっと深く学ぼう」と決意しました。
タカラジェンヌから学生へ。30代の再チャレンジ
──退団後はどのように過ごされたんですか?
宝塚市から東京に戻ってきて、まずは理学療法士になるための学校をいくつか見学して回りました。最終的に選んだのは社会医学技術学院という学校です。校舎は古いんですけれど、見学に行ったら生徒のみなさんが挨拶をしてくれたんです。宝塚時代から挨拶は大事だと教わってきたので「この学校素敵だな」と感じました。
──肌に合っていそうと感じたんですね。では、夜間学部を選んだ理由は?
もう30代に入っていたので、「のんびりしている時間がない」と思ったんです。なので、昼間は現役時代にお世話になっていた整骨院併設のデイサービスで運動指導やケアをするアルバイトをして、夜は学校に通う生活をしていました。
──デイサービスで働いた経験もあるんですね。そこではどんな支援をしていたんですか?
声を出しながらの運動や脳トレ、筋力が弱い部分の確認などをしていました。宝塚時代から学んできた身体の使い方や姿勢についても、よく共有していましたね。
呼吸について話すことも多かったです。元気なときは声に力がありますが、元気がなくなると声に張りがなくなります。だからこそ、体の状態を知るうえで呼吸はとても大事なんです。
あわせて筋力についてもお伝えしていました。膝が痛い方には、「膝そのものではなく、膝を支える筋肉を鍛えましょう」といった形でお話ししていました。
──昼間はアルバイト、夜は学校と、なかなかハードな生活ですね。
大変ではありましたが、宝塚の新人公演前のように、目の前のやるべきことを淡々と積み重ねていく感覚に近くて、本当に楽しかったです。授業を受けていると不思議に思うことや知りたいことが次々に出てきて、すぐ先生に質問していました。
──とくに好きだった授業は?
解剖生理学と運動学です。学んでいくうちに「今までやっていたストレッチ、実は伸びていなかったんだ」とか、「筋トレの角度が少し違うだけで効く場所が変わるんだ」と気づくことばかりで。宝塚時代に知っておきたい知識ばかりでした。
──逆に、苦労した授業はありますか?
パソコンでのレポート作成は本当に苦労しました……。それまでパソコンに触ったことがなくて、最初は「コピペって何?」というレベルでしたし、WordとExcelの違いもわかりませんでした。グラフの作成もわからず、パソコンを持って職員室に行って、「手が空いている先生、グラフの作り方を教えてください」とお願いしていました(笑)。
妊娠中に迎えた国家試験

──国家試験の勉強はどのように取り組まれましたか?
先生たちが「過去問をやっていれば大丈夫」とおっしゃっていたので、10年分の過去問を10回ずつ、ひたすら書いて覚えました。
──10年分を10回も……。
宝塚時代から長いセリフを書いて覚えるタイプだったので、この方法が自分に合っていたんです。書いていると、だんだんと問題のパターンがわかってくるんですよ。理学療法士は覚えることが本当に多いんですけれど、自己採点も上がっていきました。
実は、在学中に結婚して、受験のときは妊娠していたんです。体調に波はありましたが、周囲の方々が支えてくださったおかげで合格することができました。
2月に受験をして、3月に合格発表、4月には出産と、いろんなことが一度に重なって大変ではありましたが、あのとき勉強に向き合ってよかったなと思います。30代だから遅いとか、ライフイベントが重なるからとか、そういうことはないんですよね。やりたいと思ったときが、その人にとってのベストタイミングなんだと思います。
「患者さんが目指すゴールを支えていきたい」
──現職の山手クリニックに入社したのはいつですか?
正式な入社は2017年4月です。ただ、卒業後にここへ就職することが決まっていたので、学生時代からリハビリ助手としてアルバイトに来ていました。職場の雰囲気や流れに慣れておきたくて、在学中から働いていたんです。
国試に合格したあとの4月に出産をしたため、入社と同時に1年間の育児休暇をいただくことになりました。
──どうして山手クリニックを選ばれたんですか?
クリニックの方針に惹かれたからです。現役時代は整形外科ってあまり好きじゃなかったんです。診察に行くと「安静にしていなさい」「湿布と痛み止めで様子を見ましょう」で終わることも多くて。ここは「動きながら治しましょう」という方針なんです。来院される方にはパフォーマーやスポーツ選手も多くいらっしゃるのですが、ケガをしても治療しながら活動を続けたいという気持ちに寄り添っています。
もう一つ理由があります。理学療法士は通常、総合病院で幅広い疾患を経験する人が多いと思うんですけれど、私は年齢的に“下積みできる時間は多くない”と感じていました。だからこそ、経験を活かせる整形外科一本に絞ってここに来ました。気がつけば働き始めて10年になります。
──スポーツ選手やパフォーマーと一般の患者さんでは、リハのアプローチは違いますか?
対象によって違うというより、目的によってアプローチが変わる、という感覚に近いですね。パフォーマーには休めない事情があるので、患部そのものより“支える筋力”をまず徹底的に鍛えてもらいます。膝なら体幹・お尻・もも裏、股関節なら骨盤を支える筋肉のように、患部と連動する部分から整えていく感じです。
ラグビー、アメフト、柔道のようなコンタクトスポーツをされている学生さんもよくいらっしゃいますね。衝突や踏ん張り動作が多い競技なので、患部を守るために支える筋力がとくに求められるんです。結構きつい運動療法になるのですが、頑張ってトレーニングに取り組んでもらっています。
宝塚時代は身体を酷使していたので、ケガで思うように動けなくなる気持ちにも共感できますし、身体を使い続けるうえで陥りやすいポイントも、経験からだいたいわかるんです。
──宝塚での経験が活きているんですね。
そうですね。それに、今までいろんな役を演じてきたことが、患者さん一人ひとりを見る想像力につながっているとも思います。
──想像力とは?
患者さんと向き合ったとき、その方の生活や性格、人柄を含めて、この状態に至った背景を考えます。同時に、「こういう運動だったらリハビリを続けられるかな」「こういう言葉かけなら響くかな」と想像しながら関わるよう心がけています。
私たちは身体が良くなるようサポートする、いわば伴走者のような存在だと思っています。ご本人が日常の中でどう身体を使うかがとても大事で、そこを一緒に整えていくイメージですね。
──こうした考え方は、働く中で少しずつ形づくられていったんでしょうか?
最初は高齢者の方に対しても「運動したら筋力がついてラクに動けるのにな」と思うこともありました。でも、年齢を重ねるうちに、気持ちがあっても体がついてこない感覚が少しずつわかってきました。それからは、「どうしたらこの方が動きたくなるんだろう」「この方にとって負担にならない方法は何だろう」と考えるようになりました。
──これから先、堂園さんが理学療法士として目指したい姿はありますか?
パフォーマーとしての経験を生かしながら、患者さんそれぞれが目指すゴールを支えていきたいと考えています。
ケガをしたら休むことが理想でも、現実には簡単に休めない事情を抱えている人もいます。だからこそ、身体の状態だけを見るのではなく、その人が置かれている状況まで含めて考え、一人ひとりに合ったサポートができる理学療法士でありたいです。
取材協力:医療法人社団山手クリニック