新田恵利

1968年3月17日生まれ、埼玉県出身。おニャン子クラブのメンバーとして人気を博す。1986年「冬のオペラグラス」でソロデビュー。30万枚以上の売り上げを記録。2014年に実母が要介護4と認定され介護生活が始まる。6年半に及ぶ在宅介護の末、母を看取る。その後自身の介護経験を綴った著書『悔いなし介護』(主婦の友社)を出版。
母の死後、泣きながら“ドレス”を縫った

──6年半の長きにわたりお母さまを介護しました。最後はドレスを着せて見送ったんですよね。とても珍しい送り方だと思うんですが、生前にお話されていたんですか?
母が70代の頃にそんな話をしていたのを覚えていたんです。テレビで白装束の話が流れたときに「これ着るの?」って聞いたら「嫌だ」って。「じゃあ何を着るの? 気に入ってる着物なんてないんでしょ?」って聞いたら「ウェディングドレスで送ってほしい」って言うんです。その時は「はぁ〜?」って思いました(笑)。
なので最初は白いウェディングドレスを着せようと思ったんですけど、死後硬直があるので普通のドレスは着られない。それで調べたらガウンタイプのエンディングドレスを見つけて、これなら自分で作れるなって思ったんです。
母が弱りかけてから作り始めたんですけど、完成してしまったら本当に死んでしまうような気がしてきて、8割くらいで作るのを止めたんです。なので、亡くなったあとに泣きながらミシンに向かいました。
──できあがったら現実に向き合わなければいけないと思ったんですね。エンディングドレスについて、お兄さんや旦那さんの反応は?
2人とも男なので、いいねとは言っていましたけども(笑)。
毎日来てくれた訪問看護師さんが最後にエンゼルケア(死後におこなう処置やメイク)をしてくれて、みんなで着替えさせてたとき「こんなに可愛いの着させてもらえて、お母さん幸せですね」って褒めてくださって。それがとても嬉しかったんです。
あとね、口呼吸をしていたので口を開いたまま息を引き取ったんです。不思議なもので、閉じようとしても開いちゃうんですよね。それで葬儀屋さんが有料で閉じさせることもできるって言うんですよ。
──変な言い方かもしれませんが、そういう処置はオプションなんですね。
そうなんですよ。そしたら兄が「開いたままでいい」って言うんです。母が無駄にお金をかけるなって言っていたのもあるし、おそらく体をいじってほしくなかったんでしょうね。
でも私は女として口が空いたまま送るのは気が引けたので、ドレスで余った布を使ってマスクを作ってあげたの。それと薔薇の付いたヘアバンドを付けてあげて、トータルコーディネートで旅立っていきました。
たった一つの後悔

──『悔いなし介護』という本を出版されていますが、「母の介護に一片の悔いなし」と言い切れるのが凄いと感じています。それでも一つくらい後悔があるんじゃないかなと思うのですが。
本当に悔いはないんですよ! でも一つだけ心残りを挙げるとすれば、ドレスを母に見せてあげられなかったことでしょうか。
母はきっと「恵利ちゃんこのドレス綺麗ね! 上手だね、お母さんこれを着て旅立つのね! ありがとうね」って言ってくれたはずなんです。2人でこのドレスを見たかったなぁって思いますね。
旅立つ服を選べるように

──兄妹や夫婦で自身の介護について話し合ったりしますか?
大まかにはしています。何かしらのアクシデントがなければ、あと30年後くらい? 私たち夫婦は子どもがいないので、将来は第三者に面倒を見てもらうことになると思うんです。そうなると蓄えは大事だよねという話はしていますね。
──現在は介護本の出版や講演などをおこなっています。今後はどういった活動をしていきたいですか?
エンディングドレスをプロデュースして、お寺でファッションショーをやるのが夢なんです。
結婚するとき、親子でドレスを選びに行く人もいるじゃないですか。それとは逆に、旅立ちのドレスを子どもと選ぶ習慣を作るというか、死を前向きに捉える流れを作っていきたいです。
──死への覚悟や心持ちが変わる人もいるかもしれませんね。
もちろん「そんなの嫌よ」って思う人もいると思いますけど、決めておきたい人もいるでしょうし、親子で“最期の服”を選べたらそれも幸せかもしれませんよね。
──最後の質問です。今の新田さんが、介護に向き合い始めた頃の自分に声をかけるとしたら何と言いますか?
そうですねぇ……力を抜いて気を楽にしてやりなさいって。介護はスポーツでいえばマラソン。そんなに気張っちゃ駄目よって伝えたいですね。