今日の転職経験者はこんな人

今回話を聞かせてくれたのは、50代で初めて介護の仕事を始めたという女性・Mさんです。3人きょうだいの末っ子として生まれ「好きなことをしなければ気が済まない」タイプというMさん。どんなことにハマり推してきたのか、なぜ介護の仕事を選んだのか、幼少期から順に紐解いていきます。
3人きょうだいの末っ子、絵が好きな子どもに育つ

──幼少期について教えてもらえますか?
3人きょうだいの末っ子として東京の工業地帯に生まれました。小学校5年生のときに父親ががんで亡くなってしまって、母親が一人できょうだい3人を育ててくれたんですよ。
工場や駐車場の経営もしてたので、お金に困った記憶はないんですけど……。今考えると困ってたこともあるんだろうなと思います。末っ子だったのでそんなことはぜんぜん気にしないで自分の好きなことだけ突っ走ってやってたので、今になって申し訳ないと思って反省してます(笑)。
幼稚園から中学校までは全部地元の学校に通っていました。性格としては大人しくもないし積極的でもないし……、普通ですね。けど好奇心旺盛でずっと絵を描いてるような子でした。昔は紙があまりなかったので広告の裏に絵を描いたり、授業中もルーズリーフノートに絵を描いたりしてました。
──絵が好きだったんですね。
絵が大好きで、漫画家にはなりたかったですね、ずっと。
でも、中学に入ると周りに絵の上手い人がたくさんいて「ダメだな」と。絵はずっと描いてたんですが、ブラスバンド部に入ってたので、中学3年間の思い出は吹奏楽しかない感じです。
普通の高校生、会員100人超のファンクラブを作る
高校は神奈川県の学校に進学して、そこでもやっぱり普通ですね。相変わらず授業中はパラパラ漫画描いたり、お腹が空いたら教科書に隠れてパン食べたりしてました(笑)。
──そこは漫画みたいですね(笑)。
そうですね、人と違うことをするのが好きというか。悪いことよりも変なことをして目立とうというタイプ。
で、高校時代にハマってたのがバレーボール選手で、全日本とか実業団の選手の追っかけをしてまして。もらったチケットで試合に行ってみたらハマって(笑)。私の“推し”は日本鋼管(現JFEエンジニアリング)の選手で、学校休んだり朝から並んだりして関東の試合には全部行きました! 仲間とファンクラブを作って会報まで作って。会員も100人くらいいたんじゃないかな?
──すごい!
そんな高校時代でした(笑)。

その関連で「バレーボールの専門誌を発行してる出版社に入りたい」と思って、高校卒業後はマスコミ系の専門学校に進学しました。2年次にシナリオゼミに入って、そこでシナリオの勉強もしました。
当時は今みたいに発表する場がないので、ライターになるには出版社や編プロ(編集プロダクション)に入るしかないんですけど、狭き門だし、ツテもないし、もう何もないから、結局ライターにはなれなかったですね。
フリーター、キーパンチャーになる
──専門学校で勉強しても簡単にチャンスをつかめるわけではなかったんですね。
そうですね。それで結局就職できなかったので、専門学校を卒業してからはビアホールでアルバイトしてました。50代、60代の方ならわかると思うんですけど、恵比寿にあった巨大ビアホール(笑)。
そこで4年間くらい働いてたんですが、姉の紹介でコンピューターの会社に正社員として就職することになりました。「いい大人がいつまでもふらふらしてないで、私が紹介してあげるからちょっと働いてみなよ!」みたいな感じでしたね。
──その会社では何をしていたんですか?
コンピューターの会社といっても、プログラミングとかいろんな仕事があるなかで一番下のクラス、キーパンチャーと呼ばれる仕事でした。
──キーパンチャー?
とにかく書類の中身をひたすら“打ち込む”んです。何を打ち込んでいるかは私たちにもよくわからないんですけど(笑)。今はもともとコンピューターで作業してるから必要ありませんが、昔は紙からコンピューターにデータを移すっていう、そういう作業があったんです。

今でこそキーパンチャーなんて仕事は少なくなったと思うんですけど、そのおかげでとにかく打つのがすごく速いんです! キーパンチャーの人ってほかの人と雑談しながらでも打てるんですよ。書類を見る目と、キーボードを打つ指と、ほかの人と話す頭が全部独立して動くんです。
──うらやましい能力です。
不妊に悩む主婦、“バズ”を起こす
30歳のときに結婚してそのあとも仕事を続けてたんですが、社宅に入ったら通勤に1時間以上かかるようになっちゃって。早く子どもも欲しかったので、31歳で一回専業主婦になったんです。それで、ここからが私の人生の面白いところなんですよ!
私、本当に“凡人”だったんです。なんにも面白くもクソもない。でもここからが「自分変わったな」ってところなんです。
子どもが欲しかったんですけど、結婚して2年経ってもできなくて。大学病院にまで行って検査したんですが、結果は「二人とも問題なし」。それでもぜんぜんできない。当時は「不妊治療してます」なんて言えないんですね。「子どもができない」なんて言うと差別的な目で見られるから言えなかったんです。
そこで私、不妊に悩む人のためのホームページを作ったんです。そのころはちょうどインターネットが家庭にも普及し始めた時代だったんです。初めこそ自分のことを書いてるだけだったんですが、そのうち不妊治療ができる病院に関する情報がなくて困ってる人が多いっていうニーズに気がついて、そのページに口コミの病院情報を集めて出したんですよ、そしたら“バズ”っちゃって(笑)。
──すごい、いや、本当にすごいです……!
本当に今で言う“バズ”です。テレビや雑誌でもバンバン取り上げられて、全国からすごいアクセスが集まって、病院情報を毎日毎日更新して、そこで知り合った友だちとNPO法人まで立ち上げたんです。

──学生時代にもファンクラブを作っていましたが、そうやって人を集めるのが得意なんですね。
そうやって始めることが得意なのかな? 動画配信にも取り組んだんですけど、当時は通信速度が遅くてすぐに止まっちゃうのでぜんぜん広がりませんでした。今は生配信も簡単にできて本当に悔しいなって思います(笑)。
乙女ゲームにハマった主婦、シナリオライターになる
不妊治療を続けるなかで流産も何度か経験して悩んだりもしたんですけど、35歳のときに体外受精で妊娠して、36歳で長男を産みました。当時体外受精一回につき60万円くらいかかったんですが、運良く一回で妊娠・出産できたので、本当に恵まれていたほうです。それから2年後にはどういうわけか自然妊娠して長女を出産しました。
──では、お子さんは2人?
そうですね。子どもたちが小さいうちは昼間は家事と育児、深夜はミニスーパーで働いてました。一年中忙しかったけど楽しかったです! ただ世界がすごく狭いんですよね。子どもだけの生活とか、ママ友の世界とか、そういうの。そんなときに家でできることって言ったら携帯ゲームで……“乙女ゲーム”にハマったんです。

乙女ゲームは疑似恋愛というか、自分の“推し”とのストーリーを進めていくんです。それにハマって、昔は漫画家にもなりたかったし、シナリオの勉強もしたこともあるし、その乙女ゲームの会社が主催するシナリオコンテストに応募したら、最終選考にまで残ったんです!
──えっ、すごい!
ありがとうございます! フフ(笑)。賞は取れなかったんですけど、それがきっかけで表参道にあるシナリオセンターという学校に通い始めました。もちろん家事育児パートを続けながら。
乙女ゲームのシナリオライター募集のコンペに応募して、何度かゲームのシナリオも書かせてもらいました。フリーランスだと1文字2円とか3円の世界でぜんぜん稼げなかったんですが、バナー広告に私の考えたセリフが載ってたりするとテンション上がりました! 自己満足というか、作品として残るものなので。
──自分の書いたシナリオに沿ってキャラクターがデザインされて、声が吹き込まれて、実際に動いて……っていうことですね!
そうそう! そうですね。自分の“推し”が登場するゲームのプロットを書かせてもらったときなんか、会社の人とキャーキャー言いながら作って(笑)。それはもう楽しかったですね!

ただもうそのころには二足のわらじは履けなくなっちゃってて……。旦那とは別居することになりました。
別居した主婦、介護の仕事を始める
最初は実家に住んでたんですけど、事情があって出ていかなきゃならなくなって、旦那は生活費も出してくれないし「さあどうしよう」となったわけです。
子どももいるし遠くには働きに行けない。家から近くて、50過ぎの私でも正社員になれる仕事って言ったら介護の仕事しかないんです! 介護!
そこで(介護職員)初任者研修を受けて、その研修を主催している会社に紹介してもらった施設──小多機(小規模多機能型居宅介護)にそのまま就職しました。そうすると研修代がタダになるんです。
──5万、10万かかりますもんね。
そうですね、だから本当にありがたかったです。
実は周りからは「介護だけはやめておいたほうがいい」って言われてたんですよ。給料も安くて人間関係も悪いからって。でも働いてみたら私にはぴったり合ってました。ミニスーパーで深夜バイトしてると高齢者の常連さんと仲良くなれるので、そういう点ではぜんぜん困らなかったし、世話するのが好きだったので「天職じゃないかな?」とまで思いました。

スタッフ同士の仲もすごく良くて、もう楽しくて。介護の仕事をしてる女性ってシングルマザーが本当に多いんです、フフフ(笑)。
──一人でお子さんを育てている女性が多いとはよく聞きます。
本当に多くって、しかもみんながんばり屋さん。で、(離婚に関する)情報もいろいろ持ってるので「早く離婚して児童扶養手当もらったほうが得だから!」とかいろいろアドバイスをもらって、2年後には離婚が成立しました。
シングルマザー、資格取得&転職で年収を上げる
そこで介福(介護福祉士)を取ることを目標にがんばることにしたんですが、その会社、本当にいい会社だったんですけど──、社長のパワハラ・モラハラがすごかったんです(笑)。
──「いい会社」なのに「パワハラ」が?
社長はやり手だし、人間味のある人だと思うんです。「別居していて子どももいて……」っていう、訳ありの私を雇ってくれて本当に感謝してるんです。ただ、社長は気持ちを抑えられないところがあって、突然怒り出したり訳のわからないことを言い出したりして現場をかき回しちゃうんですよね。
それでスタッフが何人も辞めていきましたね。コロナのクラスターも発生させてしまいましたし。入居者と従業員の半数が陽性で、しかも何名かの入居者さんはそれが原因で亡くなりました……。
──それは大変でしたね。Mさんは大丈夫だったんですか?
マスク1枚で仕事してたんですけど、陰性でした。インフルエンザにもノロウイルスにも感染したことがないんです。それなのにストレスが原因で帯状疱疹にはなりました。本当にがむしゃらに、生活のために働いてたんです。

夜勤もしてなかったし給料は高くなかったんですが、養育費と児童扶養手当をもらってたので生活はできてました。ただ、娘が高校を卒業すると児童扶養手当がなくなってしまうので、その前になんとしても「給料を上げたい」って気持ちがありました。
──なるほど……。
今年の5月には計画通り介福を取得できたので、それに先立って2月いっぱいでその会社を辞めました。社長には「恩はないのか!」ってボロカスに言われましたけど、「申し訳ございません! いろいろありがとうございました!」と穏便に退社させていただきました。
転職先の特養はできてから日の浅い施設で、建設中から目をつけてました。同僚と一緒に「絶対にここで働きたい」「みんなでここに移ろうね」って相談してたくらいです(笑)。待遇もすごく良くなりました!
現在の収入と支出
──給与明細を見せてもらってもいいですか?
はい、こんな感じです。

──以前と比べるとどのくらい変わったんですか?
前職は総支給額が22万円だったので、7〜8万円アップしました!
──すごいですね!
夜勤ができるからというのもあるんですけど、それにしてもすごいアップだと思います。だからこれから(娘が高校を卒業して)児童扶養手当とかがなくなってもやっていけるかなと思ってます。
──1ヶ月の支出の内訳はどうなっているんですか?
現在の支出はこうですね。

差額とボーナス(賞与)は全額貯金に回しています。息子はもう独立してるんですけど、娘がまだ高3なので。
私自身は絵がダメだったんですけど、娘は絵がすごく上手で! 初めは私の影響で「介護士になろうかな」「絵は趣味でやりたい」って言ってたんですけど、私から見て才能があると思うし、私の時代と違って自分のやりたいことを発信したらそれなりに反応があるので。
実際にSNS経由で「絵を描いてください」っていう依頼も来るんですよ。元旦那も進学するなら学費は出すと言ってくれてるので、高校卒業後は専門学校に進むことになってます。
──そうやって夢や才能を信じて応援してくれる家族がいるのは心強いですね。
そうですね。私自身がそうだったし、シナリオライターになったのも50過ぎだし……。だから私も力になりたいというか。応援はしたいですね。
これからも“好きなこと”をして生きていく
──ちなみに、休日は何をしていますか?
休みの日は掃除とか洗濯とか家事をまとめて全部します。夜勤明けでも寝ずにやりますね。あとはYouTube見たりTwitterやったり……。あとこれが重要なんですけど、(乙女ゲームの)イベントがあるんですよ! 今のゲーム仲間はほとんど主婦なんですけど、みんなと約束して“推し”を応援しに行きます!
オフ会も2、3年前までは30人、40人集まってやってたんですけど、今はコロナ禍なので仲の良い数人で集まってゲームのことや家族のことを話したりしてます。それが自分にとって一番の生きる糧ですかね。仲間ですね、仲間。

──ということは、よく使うアプリも?
1番が乙女ゲームで、2番目がYouTube、3番目がTwitterですね。Twitterは普通のアカウントとオタアカウントがあるので、オタアカウントでは推しの誕生日には絵を描いて祝いますし、仲間とギャーギャー騒いでます。ちょっとそれは見せられないアカウントです、内緒です(笑)。
──バレーボールのファンクラブを作った話に始まり、今日は本当に興味深い話を聞かせてもらいました!
末っ子なんでやりたいことをやらないと気が済まない体質なのかもしれない(笑)。とにかく突っ走る感じですね。だからこれからも自分の“好きなこと”をして生きていきます。
もうすぐ60になるし、高齢者施設で働いていると自分の老後のことも考えざるを得ないです。子どもはあてにできないので老後のことは自分一人でなんとかやっていこうと思いますが、老後はできたらスマホとパソコンで部屋に引きこもって生活したい(笑)ので、終活ノートも書いとかないとなって思いました。
──少し早い気もしますが……?
いや早くないです、ぜんぜん早くないですよ。70歳とかもっと早いタイミングで認知症になっちゃう人もいるし、認知症になると自分の思いが伝わらないうちに自分自身がわからなくなっちゃうので。
そうすると本当に自分が望んでいることを伝えられないまま、老後を過ごして、人生を終えることになっちゃうので、元気なうちからこうやって老後のビジョンを考えて、周りに伝えていくことが本当に必要だと思います。それが介護の仕事に携わって一番感じたことです。